昨日(11/28)、誕生日を迎えまして。
42歳になりました。
もう「アラフォーです」と言うのもおこがましい
年齢になっちまいましたよ。
40になった時も「こんな40代・・ええんか?w」と
思いましたけど、2年経ってもそう思います。。
自分の感覚的にはまだ35くらいなんだけどなぁ~。
で。
今回は、ファッションと共に、
ざっくり自分の過去20年を振り返ってみます。(自己満)
同世代の方には懐かしいファッションも。
携帯やデジカメのない時代の写真は、
アナログ写真をスマホで撮影したので画質は悪いです。
【1991年・ハタチになる年の夏】

異人館にて。
Tシャツにデニム。まぁフツーのカジュアル。
【1992年・3月・ハタチ】

長崎・ハウステンボスにて。
紺ブレが大流行。
そしてバッグもヴィトンと並んで人気だった、
ハンティング・ワールド。
ヴィトンは定番化してるけど
ハンティングは今持ってる人、全然見かけなくなりましたね。
【1993年・21歳くらい】

淡路島・おのころアイランドにて。
この頃の口紅は必ずフューシャ・ピンク!
みんなそんな色だった時代。
【1994年・22歳くらい】

美容部員の妹が1番ケバかった頃。(妹ハタチくらい)

この年、関空がオープン。
初海外でグアムへ。

若干曇ってましたけどね、現地。。

出た!!ウエストしぼりのスキーウエアww
1番時代を感じる。。。
スキー場ではもちろん広瀬香美ヘビロテ。
ゲレンデが溶けるほどの恋はしてなかったけど。
この当時はスキーヤー天国。
スノーボーダーはほぼ居ませんでした。

これも'94かな。
当時通っていた英会話学校のクリスマス・パーティ。
今はなき「キング&クイーン」というディスコにて。
キン・クイって・・・懐かしい。
いや、もうディスコという響き自体が懐かしい。
1回しか行ったことないけど。
バブルはとっくにはじけ、
ディスコ時代の終焉を迎える。
【1995年・1/17 阪神・淡路大震災発生。当時23歳】
この時も信州へスキーに行っていた私。
友人5人と夜行バスで17日の早朝5時に大阪駅到着。
大阪からJRに乗り換えて神戸方面へ帰る途中、
5:46、芦屋駅手前で地震発生。
激しい揺れ、停電、乗客の叫び声。。
そして2両目が脱線し、電車は傾いたままストップ。
駅の手前で速度が遅くなっていたため横転はせず、
乗客は全員無事だった。
が、車内の電気は全て落ち、外もまだ真っ暗。
一体何が起きたのか。。
しばらくして同じ車両に乗っていた1人のおっちゃんが叫んだ。
「地震や・・・地震やて!!」
携帯ラジオからの情報だった。
携帯電話の普及していなかった時代、
情報源はこのおっちゃんのラジオのみ。
地震。。。?まさか。。。
ザワつく車内。地震による脱線だとは誰も思っていなかった。
この時、外の被害の大きさはまだ全くわからず。
10分後、乗務員の指示で全員線路に降り立つ。
救急車や消防車のサイレンの音が鳴り響き、
神戸の空を見上げると、何筋もの煙が。
これは。。大変なことが起こっている。。
そしてこの後、神戸の須磨まで8時間歩くことに。
高速道路が横倒しになっていた2号線沿いを
ひたすら西へ向かって歩く。
信じられない光景。。。
スマホはもちろん携帯電話もない。
公衆電話もタクシーも長蛇の列。
駅に辿り着くたび列に並び、
家に電話をしたけど回線パンク状態で繋がらず。
コンビニも人だかり。
スキー土産に買っていた草もちを食べる。
家族の無事を確認できたのは
地震発生から5~6時間後のお昼すぎくらいだったかと。
妹夫婦のお迎えにより、やっと家族に会う。
家の中はグチャグチャだったけど倒壊はしておらず。
が、水道とガスが1ヶ月ほど止まっていたため、
明石の妹夫婦宅へしばらく疎開。
ポーアイ(神戸のポートアイランド)にあった
当時の職場は半壊したので半年ほどツタヤでバイト。
そして震災後、急速に携帯電話が普及することとなる。
【1995年・9月・23歳】

シンガポールへ。
震災から1年も経っていないのに
2度目の海外旅行へ。なんともお気楽な若者。。

マーライオンちっちゃ!と思うのはお約束。

セントーサ島。珍しくワンピース。
ハンティングのバッグ、愛用しまくり。
【1996年・24歳くらい】

これは確か新宿。
関東に親戚が多いのでちょこちょこ行ってました。
ここ最近は疎遠になり、行ってませんが。
妹がやっぱりキャバ嬢っぽい。。

スキーウエアはやっと進歩。
ダボッとした今風のウエアに移行中な時代。
この頃にはボーダーが勢力を増し、
ゲレンデはスキーヤー半分、
ボーダー半分くらいだったような。。
・・・長くなりそうなので続く・・・



42歳になりました。
もう「アラフォーです」と言うのもおこがましい
年齢になっちまいましたよ。
40になった時も「こんな40代・・ええんか?w」と
思いましたけど、2年経ってもそう思います。。
自分の感覚的にはまだ35くらいなんだけどなぁ~。
で。
今回は、ファッションと共に、
ざっくり自分の過去20年を振り返ってみます。(自己満)
同世代の方には懐かしいファッションも。
携帯やデジカメのない時代の写真は、
アナログ写真をスマホで撮影したので画質は悪いです。
【1991年・ハタチになる年の夏】

異人館にて。
Tシャツにデニム。まぁフツーのカジュアル。
【1992年・3月・ハタチ】

長崎・ハウステンボスにて。
紺ブレが大流行。
そしてバッグもヴィトンと並んで人気だった、
ハンティング・ワールド。
ヴィトンは定番化してるけど
ハンティングは今持ってる人、全然見かけなくなりましたね。
【1993年・21歳くらい】

淡路島・おのころアイランドにて。
この頃の口紅は必ずフューシャ・ピンク!
みんなそんな色だった時代。
【1994年・22歳くらい】

美容部員の妹が1番ケバかった頃。(妹ハタチくらい)

この年、関空がオープン。
初海外でグアムへ。

若干曇ってましたけどね、現地。。

出た!!ウエストしぼりのスキーウエアww
1番時代を感じる。。。
スキー場ではもちろん広瀬香美ヘビロテ。
ゲレンデが溶けるほどの恋はしてなかったけど。
この当時はスキーヤー天国。
スノーボーダーはほぼ居ませんでした。

これも'94かな。
当時通っていた英会話学校のクリスマス・パーティ。
今はなき「キング&クイーン」というディスコにて。
キン・クイって・・・懐かしい。
いや、もうディスコという響き自体が懐かしい。
1回しか行ったことないけど。
バブルはとっくにはじけ、
ディスコ時代の終焉を迎える。
【1995年・1/17 阪神・淡路大震災発生。当時23歳】
この時も信州へスキーに行っていた私。
友人5人と夜行バスで17日の早朝5時に大阪駅到着。
大阪からJRに乗り換えて神戸方面へ帰る途中、
5:46、芦屋駅手前で地震発生。
激しい揺れ、停電、乗客の叫び声。。
そして2両目が脱線し、電車は傾いたままストップ。
駅の手前で速度が遅くなっていたため横転はせず、
乗客は全員無事だった。
が、車内の電気は全て落ち、外もまだ真っ暗。
一体何が起きたのか。。
しばらくして同じ車両に乗っていた1人のおっちゃんが叫んだ。
「地震や・・・地震やて!!」
携帯ラジオからの情報だった。
携帯電話の普及していなかった時代、
情報源はこのおっちゃんのラジオのみ。
地震。。。?まさか。。。
ザワつく車内。地震による脱線だとは誰も思っていなかった。
この時、外の被害の大きさはまだ全くわからず。
10分後、乗務員の指示で全員線路に降り立つ。
救急車や消防車のサイレンの音が鳴り響き、
神戸の空を見上げると、何筋もの煙が。
これは。。大変なことが起こっている。。
そしてこの後、神戸の須磨まで8時間歩くことに。
高速道路が横倒しになっていた2号線沿いを
ひたすら西へ向かって歩く。
信じられない光景。。。
スマホはもちろん携帯電話もない。
公衆電話もタクシーも長蛇の列。
駅に辿り着くたび列に並び、
家に電話をしたけど回線パンク状態で繋がらず。
コンビニも人だかり。
スキー土産に買っていた草もちを食べる。
家族の無事を確認できたのは
地震発生から5~6時間後のお昼すぎくらいだったかと。
妹夫婦のお迎えにより、やっと家族に会う。
家の中はグチャグチャだったけど倒壊はしておらず。
が、水道とガスが1ヶ月ほど止まっていたため、
明石の妹夫婦宅へしばらく疎開。
ポーアイ(神戸のポートアイランド)にあった
当時の職場は半壊したので半年ほどツタヤでバイト。
そして震災後、急速に携帯電話が普及することとなる。
【1995年・9月・23歳】

シンガポールへ。
震災から1年も経っていないのに
2度目の海外旅行へ。なんともお気楽な若者。。

マーライオンちっちゃ!と思うのはお約束。

セントーサ島。珍しくワンピース。
ハンティングのバッグ、愛用しまくり。
【1996年・24歳くらい】

これは確か新宿。
関東に親戚が多いのでちょこちょこ行ってました。
ここ最近は疎遠になり、行ってませんが。
妹がやっぱりキャバ嬢っぽい。。

スキーウエアはやっと進歩。
ダボッとした今風のウエアに移行中な時代。
この頃にはボーダーが勢力を増し、
ゲレンデはスキーヤー半分、
ボーダー半分くらいだったような。。
・・・長くなりそうなので続く・・・


