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神戸の震災のことは、
以前このブログにも少し書いたのだけど。


今年はあれから20年の節目ということで。

8年前に某SNSに詳しく書いたものを
再編して転載しようかと思います。

被災経験者の1つの記録として、
新たな読者様にも目にして頂ければ。






神戸の地震は早朝だったため、
自宅で寝ていた方が殆どでしたが。


私の場合は違っていました。







【1995年1月17日・阪神淡路大震災】



そのとき、私は電車に乗っていた。


当時23歳。


若い頃は、毎シーズンよくスキーに出かけていて、
この日も信州へスキーに行った帰りだった。



夜行バスが信州から大阪に到着したのが17日の朝5時頃。


大阪からJRに乗り換え、まず尼崎の友達に別れを告げて
神戸の友達と3人で電車に揺られていた。







そして、5時46分。







ガタン ガタン ガ ガ ガ ガガガガガー!!!




轟音とともに、電車が突然激しく横揺れし始め、停電。




ぎゃあぁぁぁぁぁーーー!!!





乗客全員が悲鳴をあげる。


ドア付近に立っていた私と友人たちも
叫びながら倒れこむようにしゃがんだ。



そしてストップ。



傾いている。



どうやら脱線したらしい。



芦屋駅に着く寸前で速度が落ちていたおかげで
横転はせず、乗客も皆、無事だった。



しかし、それが未曾有の大地震であるということは
その時はまだ、誰も知る由もなかった。

a1.jpg

当時は携帯電話が普及していなかったため、
外部と連絡をとる術はない。

携帯があったとしても繋がっていなかったと思うけれど。



「しばらくお待ち下さい。外には出ないで下さい」
と、車内アナウンス。


窓から外を覗くも、真冬の早朝だったため、
まだ暗くて状況がよくわからない。



「なになに・・?何が起こったん?!」


「なんで脱線したん?!」



ざわつく車内。



しばらくすると。



同じ車両に乗っていた1人のおっちゃんが 叫んだ。






「地震や・・・・地震やて!!!」






携帯ラジオからの情報だった。



え?地震・・?!まさかぁ・・・・??



しかし被害の大きさはまだ全くわからなかった。




しばらくして、1車両のドアを開くので全員そこから
外へ出るよう指示アナウンスが流れた。



線路に飛びおりる。



目の前の芦屋駅がつぶれていた。



神戸方面に目をやると、煙が何筋も上がっている。



救急車や消防車のサイレンの音が鳴り響く。



b1.jpg


これは・・・・
大変なことが起きている・・・・




呆然としながらも、とりあえず国道2号線に出た。

信号が止まっている。交通はすでにマヒ。


偶然にもそこへ、
一緒にいた友人のお父さんが車で通りかかる。


「○○子!!大丈夫か!!」

「今から○○おばちゃんとこ行くからおまえも乗れ!
 連絡取れへんねん!」


近くの親戚の安否確認に向かうらしい。

そこで友人1人と別れ、
もう1人とも方向が違うのですぐに別れた。


スキー荷物を抱え、
ここから1人で2号線を歩くことに。


友人2人は、
脱線した芦屋からほど近い東灘区在住だったけど。

当時私が住んでいた実家は
神戸の西の端の垂水区と明石市の境目付近。



遠い。。



家族の安否は全くわからない。
連絡を取る術がない。


とにかく西へ歩くしかなかった。




果てしなく遠い道のり。
いったい何時間かかるのだろう。




信じられない光景が次々と見えてくる。




こ、高速道路が・・・・

まさか・・・・


c1.jpg


実際にあの状況の中にいると
恐怖や悲しみはすぐには感じない。

非日常の世界。
まるで映画のセットの中にいるような。

ただただ呆然とするのみ。

あり得ない状態の神戸の街をただひたすら西へ歩く。



芦屋から3時間ほどかけて、
神戸の中心部・三宮駅へ到着。


公衆電話は人だかり。
やっとこさ自分の番。


しかし、実家も母親宅も妹宅も繋がらず。



隣りの元町駅。
やはり繋がらず。


駅構内のトイレで用を足すが
もちろん水は流れない。

すでに劣悪な衛生状態。
悪臭がすごい。



タクシーは長蛇の列。諦める。

1人歩く。ひたすら歩く。


しかし人間、どんな時でもお腹は減る。

コンビニは人だかり。諦める。


スキー土産に買った草モチを
長田郵便局の前で食べる。



そして再度、公衆電話へ。

ようやく母親に繋がる。
互いの無事を確認。


「迎えの車を出せる状況ではない」と言われたが
とにかく父や妹夫婦も無事らしい。



更に歩く。



疲れは殆ど感じないけれど。

目の前で起こっている出来事が
現実のことなのかそうでないのか。



とにかく、ひたすら西へ歩くしかない。



須磨水族館前。
やっと妹夫婦のお迎えが。


普段なら20分程度で来られる距離を
大渋滞の中、1時間以上かけて来てくれた。



よかった・・・



気づけばお昼の2時。
地震発生から8時間が経過していた。




実家に帰ると、私がいつも寝ていた所に
大きなタンスが倒れていた。

もし家で寝ていたら大怪我か、
もしくは、打ちどころが悪ければ死んでいたかも知れない。

脱線して8時間も歩くハメになったものの
家にいなくて正解だったのかも知れない。



家の中はグチャグチャだったけど倒壊はしておらず。
私が帰る頃にはほぼ片付いていた。

が、水道とガスが1ヶ月ほど止まっていたため、
殆ど被害のなかった明石の妹夫婦宅へしばらく疎開。

ポーアイ(ポートアイランド)にあった
当時の職場は半壊したので半年ほどTSUTAYAでバイト。




この震災後、急速に携帯電話が普及することとなる。





・・。・・。・・・。・・。・・。・・・。・・。・・。・・・。・・。・・。・・・





あれから20年。

さすがに今は、
地震の爪あとを探す方が難しいほどの神戸の街。

あの震災を知らない(経験していない)世代も
どんどん増えています。


被災はしたものの、
身内や知り合いで亡くなった人もおらず、

実家は古い公団住宅だけれど、倒壊を免れ、
避難所や仮設での生活も経験していない私。


電車内にいたせいで
地上での激しい揺れも経験しておらず、

20年も経つと防災意識もかなり薄れています。

ベッドの脇に、懐中電灯を置いている程度。。


神戸は沿岸部にも関わらず、
東北のような津波は来ませんでした。

和歌山や淡路島があるから地形的に
津波は来ないのかな、と思っているけれど。

震源地や震源の深さ、地震のタイプによっては
津波の可能性もあるわけです。



もし大津波がきたら・・


もし火災が発生したら・・



自然災害は避けられるものではないけど
ちょっとした心がけや知識の差で生死が分かれることもある。

いま一度、防災意識を高めないといけないですね。



※震災画像はネットから拝借しました。




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特設動画が見られるようになっていますね。


知らなかった防災知識も多くて勉強になります。
阪神淡路大震災


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2015.01.17 Sat l 阪神淡路大震災 l コメント (4) トラックバック (0) l top